14年前、家から車で行ける最も近い砂漠地帯の一角に家を買いました。
砂漠のど真ん中にあるその家は、わたしが自然に内なる家族とともに過ごすことができる大切な家です。家の周りには砂漠が続き、様々な色や形の野生のサボテンが群生しています。夜中には野生のコヨーテの遠吠えが聞こえ、自分はたった今、この地球に生きる、いのちの一部であることを思い出させてくれます。
その砂漠の別荘がある村には小さなコミューンがあり、大体20戸の家が点在しています。そこに暮らすそれぞれの家族は、まるでそこに生息するサボテンの一部かのように常に自然で、ユニークで平和な人々です。わたしは週末や長期休暇がある度に、砂漠の家を訪れ、土地から、そしてその村に暮らす人々から癒しや多くの恩恵を受け取っていました。
先日、89歳になる母を連れて、夫と砂漠の家で週末を過ごした時のこと。
母はまだまだ元気なのですが、ここ数年、怪我や弱った足腰など、これまでの生活とは変化しているということが少しずつ明らかになっていく過程で、わたしもクリーニングしながら、ウニヒピリとの共同作業であることを忘れないように、一つ一つその時わたしができる最大限のことを行ってきました。
その週末はとても和やかに、 母、夫、わたし、皆それぞれが自由に時間を過ごすことができました。そんな中、わたしが散歩がてら村の中心地に行った時、知らない間に10年以上挨拶をしてきた住人たちの家が、死去によって空き家になっていたり、オーナーが変わっていたり、いつの間にか退去していることを知りました。
その時、猛烈にわたしの中で、「あの人たちが今までのようにこれからも素晴らしい日々を平和なこのコミュニティの中で生きていてほしい」と強く願っていることに気がつきました。郷愁や強い執着とともに、わたしはこの土地で得たあらゆる素晴らしい時間がいつまでも末長く続くことを涙が出るほどに強く思っている自分を知りました。そして、それがわたしの人生を豊かにするために絶対必要なものなのだという感覚があること、自分が理解していたよりも遥かに強い願いであることに動揺してしまいました。その動揺や見えてきた想いをクリーニングしていく中で、それはわたしが自分の母親に対して強く思っていることでもあるということにも気がつきました。
愛する家族や友人が最期の瞬間まで平和に幸せに生きていてほしい、という強い願いの裏には、何気ない瞬間に、母親に記憶の障害が現れたのかもしれないと不安になる感覚、前のように自由に歩けないかもしれない、もう旅行に行くことはできないかもしれない、手遅れなのかもしれないと一瞬でも感じたこと。そのようなあらゆる恐れが隠れていることに気がつきました。
それらをクリーニングすることで、わたしは自分をそして母を神聖なる存在のもとに還してあげることができるという、ホ・オポノポノからの学びに、ほんの一瞬ですが平穏を取り戻し、そこからはずっとクリーニングを続けています。
ノスタルジア、切なさ、郷愁はすべてクリーニングできることです。
実はその瞬間本当に再生されているものは、遥か昔からの歴史の中で何光年もかけて繰り返し体験されてきた暴力と痛みに満ちた死の瞬間であるかもしれません。
今の自分はそれがわからなくても、あらゆる記憶を潜在意識は今この瞬間も抱えているのです。
だからこそ、そのカケラを今の人生において一瞬でも体験するとしたら、それをクリーニングすることで、魂の負債を消すことができます。
心配を通して家族と接しているとしたら、今この瞬間クリーニングを通して、お互いが自由になるために家族として今世現れたかけがえのない存在として、もともと宇宙が始まったときから常にあった愛と自由を取り戻すために関わることができます。
平和
モミラニ・ラムストラム
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