どんな時も自分自身をクリーニングする姿勢を崩さないことが、クリーニングを実践する上での一番のコツだとわたしは思います。
それはどういうことかというと、たとえば体が怪我や病気などで不調を訴えているとき、わたしはまず、わたし自身をクリーニングします。体はもちろん、わたしの一部ではありますが、体には体のアイデンティティーがあります。
その体を通して、今、わたしが痛みを体験している、苦痛を感じている、不安を感じている。それらはすべて、わたし自身の持ち物である記憶が体験させているのです。
ですから、クリーニングすることで、それらを手放すことができます。
たとえば、血液検査を受けたときのことですが、この1年ほど、わたしの血液の数値が少し高めでした。基準を満たしていないから良くないのだと思っていました。でも、数値はずっと安定しているんです、本当に。つまり、一定なんです。わかりますか?
それで、わたしはそのことを忘れ、自分を責めるような考えにとらわれていきます。「この基準より下じゃないといけない」「この数値までに抑えないといけない」「何かして改善しないと」って。でも、それは自分が体を操作しようとしているということなのです。
そういうときにクリーニングして、自分の体に話しかけると、体はこう言うのです。
“We are where we’re supposed to be.”
「わたしたちは、いるべき場所にいるんだよ」
それは決して、体がどんな状態であっても放っておきなさいという意味ではありませんし、医者がたとえ何と言ったとしても、それを聞くべきではないという意味では決してありません。
ここでわたしが言いたいのは、今、体が自分に見せてくれていることは、自分にとって最善のメッセージであり、物語なのです。そして、それは今自分がクリーニングする価値がもっとも高いものであるとも言えます。
そのことに対して何の判断もせず、まずクリーニングしてみるとき、わたしたちは本来の体にとって不要な記憶を手放し、体の働きを神聖なる存在に委ねていることになるのです。
健康診断に行くときや怪我をしたとき、わたしたちは医者に体を見せ、その測定結果に一喜一憂して判断を加えていきます。でも、それもすべて、自分と体が本来の働きを取り戻すためのクリーニングのチャンスなのです。
1年ほど前、年に1回の定期検診で心電図、つまり心臓の検査を受けました。心臓の働きを見るために「心エコー検査」というものを受け、その結果を医者から渡されました。
医者はこう言いました。「あなた、以前に心臓発作を起こしたみたいですね」と。
わたしは「え? 心臓発作なんて起こしたことはありません」と答えました。すると医者は「ここを見てください、こういう兆候があります」と何かを示してくるのですが、実際にわたしはそんなことを感じたこともないし、覚えもありません。運動もしており、走ったり泳いだりしていて、息切れなども感じたことがありませんでした。
医者は「じゃあ、6か月後に専門医にもう一度検査してもらいましょう」と言い、6か月後、再検査を受けた結果、「ああ、これは多分機械のエラーだったんでしょう。心臓発作の痕跡は全く見つかりませんでした」と言われました。
では、一体何が起きていたのか。わたしにはわかりません。でも、その間、わたしは心臓発作の恐れに対してずっとクリーニングをしていました。心臓に話しかけたりもしていました。
ですから、もしかしたら実際に発作があったのかもしれないし、なかったのかもしれない。でも、その後、神聖なる存在が何をしてくれたのか、わたしにはわかりません。ただ、医者は「ここで終わりにしましょう」と言いました。
健康に取り組むとき、わたしたちは皆、健康でありたいと願っています。わたしは時々、健康に取り組もうとする自分の姿が、とても傲慢で、ある意味暴力的ですらあると感じることがあります。
わたしたちはまだ、自分の体をコントロールできると考えているのです。本来の体はこうあるべきだ、こうすべきだという思いに気づいた瞬間にクリーニングされるのは「記憶」であり、健康を願う「意欲」ではありません。
記憶がクリーニングされるとき、わたしたちはインスピレーションを通じて、自分が今いるべき場所にいて、すべきことをし、選ぶべきものを選択できるようになります。
その結果、体は休むべきときに休み、体重を落とすべきときにはさまざまな方法を通して落とし、必要であれば手術などの治療も行うのです。
わたしたちは、体を「(わたしたちが考える)健康」にするために良い生活を送ったり、医者を見つけたり、治療法を選んだりします。でも、「正しくて完璧な答え」をくれるのは、神聖なる存在だけなのです。
そして、クリーニングをし、自分と体が本来のアイデンティティーの気づきの中にいるとき、たとえリハビリに行く必要があったり、わたしが薬を飲んだり、手術を受けなければならないとしても、それは自分の体にとっての「神聖なる計画」なのです。





