家族との関係に問題が起きた時、私たちはなんとか状況を変えようとします。
相手にわかってもらいたい。
誤解を解きたい。
以前の関係に戻りたい。
けれども、わかってもらおうとするほど、関係が固く閉じてしまうことがあります。
今回は、疎遠になっていた甥との久しぶりの再会を通して、クリーニングが見せてくれたことをお話ししたいと思います。
私には36歳になる甥がいます。
甥の父親は私の兄です。甥がまだ2歳の時に、兄は亡くなりました。その後、甥の母親は再婚し、甥は新しい父親のもとで育ちました。
私は甥を愛していましたが、彼が、新しい父親となる人と母親とともに新しい家族を築いていく過程を邪魔してはいけない、深く関わりすぎない方がよいと思い、いつしか自然と距離ができていきました。
甥の母親とは連絡を取り続けていましたが、甥との交流はごくわずかなものでした。1年に一度も連絡を取らない年があり、3年から4年ほどメッセージを送らなかった時期もありました。
それは、甥を大切に思っていなかったからではありません。むしろ、甥にはすでに新しい家族と人生があり、その関係を尊重したいと思ったからでした。
大きな諍いがあったわけではありません。しかし、兄の死や義理の姉の再婚といった出来事、そして新しい生活を尊重したいという思いや、その中にあった配慮や悲しみなど、言葉にならないさまざまな記憶が、私の中で繰り返し再生されていたのだと、今ならわかります。
成長した甥はイタリアを離れ、ロンドンで暮らした後、現在はロッテルダムで生活しています。中国出身の女性と結婚し、夫婦で仕事をしながら、自分たちの人生を築いていました。
二人は時折イタリアに戻ってきていましたが、会う機会は長い間ありませんでした。
ところがある時、甥の方から私を訪ねてもよいかと、母親を通して連絡がありました。
こうして甥夫婦は、私のもとを訪れることになりました。
正直なところ、当初私はあまり乗り気ではありませんでした。彼らが生きている世界や、興味を持っているビジネスの分野は、私とはあまりに遠いところにあるように感じ、尻込みする自分がいました。
それをクリーニングしながら、その日を迎えました。
家に来た二人に一杯の水を差し出し、何気ない会話を始めました。特に兄の話をしようとしたわけでも、甥との関係を深めようとしたわけでもありません。
ただ、その場にいて、二人を迎えただけでした。
すると甥の妻が、私の仕事について尋ねました。話を聞いた彼女は、参加できるワークショップがないかと聞きました。
ちょうど翌週末に、私は夢をテーマにしたワークショップを開催する予定でした。
けれども、常に忙しく、論理的で現実的な考え方をする甥が、そのような内面的な探求に関心を持つとは想像していませんでした。
そこでも私は、ただクリーニングを続け、自分自身に戻ることを心がけました。彼らとの隔たりや、自分の中にある判断や躊躇も、すべて私自身の記憶としてクリーニングしました。
そして実際に、甥夫婦は私のワークショップに参加したのです。
ワークショップは、かつて私と兄が暮らしていた家で行われました。甥にとっては、実の父親が生きていた場所でもありました。
ワークショップの後、私は甥と話をする時間を持ちました。
そこで甥は、人生で初めて、実の父親について知りたいと感じたと私に言いました。
それは私にとって予想外のことでした。なぜなら、私が記憶している限り、甥は人生のほとんどを新しい父親と過ごし、それが家族の誰にとっても、あまりに自然な姿だったからです。
そして、その家族の形が自然なものとして保たれるよう、関わる一人ひとりが、それぞれに心を配ってきたのだということにも気づきました。
甥は2歳で父親を亡くしているため、実の父親についての記憶はほとんどありません。
それでも彼の中には、本人も気づいていなかった何かが残っていたのかもしれません。
甥はその家を見ながら、そこにいたことを覚えているような気がすると言いました。
そんな話を聞くうちに、私は、自分自身も知らないうちに、固く閉ざしていた部分があったことに気づきました。それと同時に、その固さが少しずつ解けていくのを感じました。
これは、誰かが仕組んで起こしたことではありません。ただ、自然と開かれていった先に現れたことでした。
甥夫婦は、私が想像していなかったことに関心を示し、ワークショップを純粋に楽しんでいました。
そして甥は、息子として、父親と新しく出会い直すような体験をしました。私はその姿を見ながら、静かに癒されていました。
そのどれもが、期待したことでも、あらかじめ操作したことでもありません。ただ開かれていた先に、それぞれの新しい発見と体験がありました。
私はそのすべてに感謝しました。
私たちは、もともと争っていたわけではありません。平和な関係ではありました。
でも、この経験を通して、家族の関係に新しい層が生まれたのです。
遠ざかっていた関係が、以前の形に戻ったわけではありません。これから頻繁に会うようになるかどうかもわかりません。
もしかすると今後10年間、再び会わないことさえあるかもしれません。
それでも、その一度の時間によって、それまでにはなかった関係が生まれました。
人生の豊かさに触れる体験でした。
父親を亡くした甥。
長年、その息子を育ててきた母親。
甥の妻。
そして、兄を亡くした私自身。
全員にとって、いえ、意識では捉えきれない、このことに関わるあらゆる存在にとって、この再会は一つの癒しとなった実感があります。
この出来事の中で、私は甥に何かを説得したわけでも、実の父親について知るべきだと教えたわけでも、ホ・オポノポノについて長く説明したわけでもありません。
甥との関係を取り戻そうと、計画を立てたわけでもありませんでした。
ただ家に招き入れ、水を差し出し、話をし、その時、目の前に現れた流れに、クリーニングを通して応じていきました。
たとえ頭では、今すぐ何かをしなければならないと思っても、心のどこかで、今は動く時ではないと感じることもあります。
その感覚に従うことは、結果を保証してくれるものではありません。
けれども、すぐに答えを出せないままでも、自分や相手の人生に対して開かれていることはできます。
「流れに逆らって泳がない」
海では、岸に向かってまっすぐ泳いでいるつもりでも、潮の流れによって、少しずつ違う場所へ運ばれることがあります。
私たちは、最初にいた場所へ戻ろうとします。
以前の家族関係。
以前の安心感。
自分が思い描いていた結末。
けれども、今たどり着くべき岸は、最初にいた場所とは違うのかもしれません。
家族との関係が変化する時、そこには痛みがあります。
頭は、「これは間違っている」「以前の状態に戻らなければならない」と訴えます。
けれども人生の流れは、私たちが予想していなかった場所へ運ぼうとしていることがあります。
相手ではなく、神聖なる存在に心を開くことは、クリーニングを通していつでもできます。
家族との関係で傷ついている時、相手に対して心を開くことは簡単ではありません。
信頼できないと感じている人や、厳しい言葉を向けてきた人に対して、ただ心を開きなさいと言われても、それは自分自身を無視することになりかねません。
心を開くということは、無防備になって、相手の要求をすべて受け入れることではありません。
相手に心を開けない時は、まず神聖なる存在に心を開く。
今すぐ相手との関係を変えようとするのではなく、自分の知っている答えを一度手放し、神聖なる存在とのつながりを取り戻していくことに意識を向けるだけでも、流れに変化は生まれます。
クリーニングは、望む結果を手に入れるための操作ではありません。
相手を変えるためでも、壊れた関係を以前の形に戻すためでもありません。
自分の中にある期待や恐れ、正しさへの執着を手放し、自分ではまだ知らない可能性に開かれていくこと。
そして、必要な時に現れる流れを受け取ること。
何も起きていないように見える年月の中でも、クリーニングによって、見えないところで何かが準備されていることがあるのかもしれません。
家族との関係は、無理に動かさなくてもいい。
自分の考える正しい形へ戻さなくてもいい。
今できることは、自分自身に戻り、神聖なる存在とのつながりに心を開いておくことです。
必要な扉は、私たちが想像していなかった方法で、静かに開くことがあるのです。





